
「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」
矢本理子(Rico Yamoto)
先日、とても風変わりな映画を観ました。奇想天外な物語に驚き、美しい景色に見惚れているうちに、あっという間に映画が終わってしまいました。映画のタイトルは「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」。本年度の米アカデミー賞の11部門にノミネートされている注目作で、日本でも1月25日から、すでに上映が始まっています。
物語は、20世紀半ばまでインド南東部にあったフランス領ポンディシェリから始まります。主人公パイ・パテルの家族は動物園を経営していました。しかし、ポンディシェリがインドへ返還されることになり、社会体制の変化をおそれたパイの父親は、カナダへの移住を決意します。一家が動物とともに乗りこんだのは、日本の貨物船ツシマ丸でした。ところがマニラを出港したあと、貨物船は嵐に巻きこまれ、沈没してしまいます。なんとか救命ボートに乗り移ったパイでしたが、そこには、足を折ったシマウマ、オランウータン、ハイエナ、そしてリチャード・パーカーという名の獰猛なベンガルトラまで同乗していたのです……。

弱肉強食の掟どおり、トラ以外の動物は次々と命を落としていきます。16歳の少年パイは、体重200キロのベンガルトラに噛み殺されないように、たった一人で戦わなければなりません。おまけに、救命ボートに積まれていた非常食は徐々に減っていき、ベジタリアンだったパイは、ついに魚を捕まえなければ生き残れない状況におちいります。初めはパイにとって単なる野獣でしかなかったリチャード・パーカーでしたが、生き延びるために、身体と頭脳をフルに使って様ざまな工夫を続けるなか、少年は少しずつトラを手なずけ、共生環境を築き上げていきます。そして、いつしかリチャード・パーカーは、孤独なパイにとって、必要不可欠な存在へと変化していくのです。
それにしてもアン・リー監督は、大変な題材にチャレンジしたと思います。なにせ映画の大半は、少年とトラしか登場しませんし、彼らが同乗しているのは、全長8メートルしかない救命ボートなのです。一瞬たりとも気を許せない少年パイの緊張感が伝わってくる演出に、唸りました。そしてもう一つ、私がこの映画に惹きつけられた理由は、太平洋の自然描写にあります。鯨のジャンプ、優雅なウミガメ、トビウオたちの襲来、イルカのダンス、夜の海に浮遊するクラゲの大群、突如おそいかかる大嵐などなど。次から次へと異なる一面をみせる大海原の美しさと恐ろしさに、圧倒されました。これは現代のデジタル技術ならではの、多彩な映像表現だと思います。


『パイの物語』(ヤン・マーテル 著、唐沢則幸 訳、竹書房文庫、2012年刊行)
映画の原作は、『パイの物語』というタイトルで、2001年にカナダから出版されました。およそ1年にわたってニューヨーク・タイムズのベストセラーにランキング入りし、2002年にはイギリスの文学賞であるブッカー賞を受賞しました。原作者のヤン・マーテルはカナダ人ですが、外交官だった父親の仕事の関係でスペインで生まれ、子ども時代はアメリカ、フランス、メキシコなどで育ちました。トレント大学で哲学を学んだマーテルは、その後、インドやイランでも暮らした経験の持ち主です。
実はこの『パイの物語』は、後半、思いがけない展開をみせます。パイ・パテルが語る“真実”とは何なのか? 救命ボートの上ではいったい何が起こったのか? そもそもリチャード・パーカーとは何者なのか? 様ざまな謎が渦まき、私たちはまんまと、原作者がしかけた罠にはまってしまうのです。さあ、この物語の結末を知りたくなった方は、是非とも映画館へ足を運んでください。そして原作にも挑戦していただきたいです。この物語は、「神のみぞ知る」という言葉の深淵について、しみじみと考えさせられる、一筋縄ではいかない名作なのです。
(c)2012 Twentieth Century Fox
矢本理子(Rico Yamoto)
東京うまれ、茨城県そだち。大学では社会学と歴史学を、大学院では西洋美術史を学ぶ。
1995年に岩波ホールへ入社。
現在は宣伝を担当。
【過去の記事】
≫「ヒューゴの不思議な発明」
≫「床下の小人たち」
≫「グスコーブドリの伝記」
≫「ピーター・パン」
≫「本へのとびら ― 岩波少年文庫を語る」
≫「白雪姫と鏡の女王」
≫「009 RE:CYBORG」
≫「シルク・ドゥ・ソレイユ」
≫「ホビット 思いがけない冒険」
≫「レ・ミゼラブル」