
「少年H」
矢本理子(Rico Yamoto)
2013年8月15日、日本は68回目の終戦記念日を迎えました。私はその日、「少年H」という映画を観にいきました。本作の原作者は舞台美術家の妹尾河童さんで、1997年に講談社から刊行された自伝的小説「少年H」は、当時、大きな反響をよびました。「河童が覗いたヨーロッパ」や「河童が覗いたトイレまんだら」といった、細かいイラスト入りの紀行本で有名な妹尾さんですが、その旺盛な好奇心のみなもとが少年時代にあることが、この本を読むとよく分かります。そして妹尾さんの子ども時代は、実は日本の戦争時代と重なっていました。

Hの本名は、妹尾肇(はじめ)です。彼は1930年に、洋服の仕立屋の父・盛夫と、熱心なクリスチャンの母・敏子のもとに、神戸で生まれました。なぜ彼がHと呼ばれているのかというと、ハイカラな敏子がアメリカ人の知人を真似て、Hという刺繍入りの手編みのセーターを彼に着せていたからです。Hの実家・妹尾洋服店は、神戸市長田区の鷹取駅の近くにありました。南には須磨海岸、西にすこし歩けば映画館や商店で賑わう大正筋、という活気のある町でHは育ちました。当時の神戸には様ざまな国の人が住んでおり、Hたち神戸っ子は、幼い頃から外国人や異文化にふれて育ちました。小学校時代のHは、毎日、海や山で遊ぶ元気な少年でした。絵も得意で、スケッチもよくしていました。しかし、そんな呑気な日常の裏で、日本をとりまく状況は少しずつ悪化しつつあったのです・・・。

「少年H」は、平和な時代から戦時下へと激変する神戸の様子を、つぶさに教えてくれる名作です。戦争については、東京大空襲や広島・長崎への原爆投下、沖縄戦といった断片的な知識しかなかった私にとって、「少年H」は新鮮な小説でした。外国人が次々と神戸を去り、様ざまな規制や法律の改定が行われ、自由にものが言えない社会になっていく過程が、少年の目線で丁寧に描かれています。
日常生活に、じわじわと押し寄せてくる戦争の影が恐ろしいのです。キリスト教を信仰し、欧米人とのつきあいも多かった妹尾家にとっては、生きづらい時代だったと思います。威張りくさった軍人たち、日和見主義で意見をすぐに変える大人たち。戦争は、人間の本性をむき出しにします。でもHは自立心が強い、たくましい少年です。理不尽な目にあっても、決してくじけません。おそらく、「これからいろんなことが起こるのを、自分の目でしっかり見ときよ。自分がしっかりしとかなんだら、潰されてしまうよ」という盛夫のメッセージを、しっかりと受け止めていたからでしょう。

今日は、神戸の戦争体験に関する、もう一つの作品もご紹介します。豊田和子さんの「記憶のなかの神戸-私の育ったまちと戦争」です。豊田さんは1929年に、湊川神社近くの賑やかな商店街にある時計宝石店で生まれました。Hより1歳年上の和子さんもまた、神戸大空襲で家を失いました。平和で豊かで、華やかだった戦前の神戸が大好きだった豊田さんは、自分の記憶に残っている街並みや風俗を絵に残しました。1941年12月8日の真珠湾攻撃のあと、日本の戦況が激化して、世の中がだんだんと息苦しくなっていく様も、沢山の絵に描いています。私はこの絵本と「少年H」を両方読むことで、戦争前後の神戸について、色いろと知ることができました。
戦争は、いきなり始まる訳ではありません。社会が少しずつ変化し、戦争に反対できないような空気が生みだされ、人々は徐々に、その異常な状況を受けいれてしまうのです。私たちが同じ過ちを繰り返さないためには、歴史から学ぶしかありません。1年に1度、終戦記念日だけでもいいのです。戦争に関する映画を観たり、小説を読む習慣を身につけること。そこから学べることは決して少なくないと、私は思います。
(C)2013「少年H」製作委員会
○少年H(2013年8月10日より全国で上映中)
映画公式HP

○少年H(妹尾河童 著、講談社文庫、1999年刊行)
○記憶のなかの神戸-私の育ったまちと戦争(豊田和子 絵・文、シーズ・プランニング、2007年刊行)
矢本理子(Rico Yamoto)
東京うまれ、茨城県そだち。大学では社会学と歴史学を、大学院では西洋美術史を学ぶ。
1995年に岩波ホールへ入社。
現在は宣伝を担当。
【過去の記事】
≫「ヒューゴの不思議な発明」
≫「床下の小人たち」
≫「グスコーブドリの伝記」
≫「ピーター・パン」
≫「本へのとびら ― 岩波少年文庫を語る」
≫「白雪姫と鏡の女王」
≫「009 RE:CYBORG」
≫「シルク・ドゥ・ソレイユ」
≫「ホビット 思いがけない冒険」
≫「レ・ミゼラブル」
≫「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」
≫「オズ はじまりの戦い」
≫「舟を編む」
≫「パパの木」
≫「コン・ティキ」